いまさら履修する「プリパラ」について

友人に激推しされて、プリパラシリーズを全部観ている。
1期を見納め、間髪入れずに2期を見始めたところだが、現段階ですでに評判に違わぬ素晴らしい作品だと感じている。

なぜ、こんな堅苦しい書き出しをしているかと言えば、「プリパラ」という作品はやたらと批評家/評論家が褒めがちな作品であり、その褒められ方も「そんなに言うかぁ~?笑」となるくらいにべた褒めだからだ。ほんと凄い褒められててウケる。
(激推した友人はそういう文脈で勧めてくれたわけではない、ということをここで断っておく)

とりあえず例とか出しとく。

www.kaminotane.com

 

という感じ。
偉い人が褒めてるからとりあえず凄いのだ。みんな観よう。おわり。

 

という冗談も言えるくらいに、美術とかサブカルチャーとかを語る人は一様に褒めてる印象はある。といっても男性ばっかりかもしれない。

いくら「プリパラ」が素晴らしかったとして、作品として強度があったとして、この作品をスタンダードなものとして位置づけることができるんだという言説には、いささか疑念が残る。
改めて示す必要もないが、「プリパラ」のメインターゲット層のひとつは成人男性であり、ロリコンコンテンツとして消費されていると言ってしまえば、それで終わってしまうかもしれない。
それで終わってしまうように僕が思うのにはそれはそれで事情があり、ゼロ年代サブカルチャー批評が現在にうまく繋がってこなかったことや、美少女アニメなどを好む層がそういった言説を拒否しつづけたこと、なにより昨今のグローバリズムを背景としたポリコレからすると児童ポルノと距離が近すぎると判断される可能性を十二分に感じるからだ。

僕もいち男性オタクとして、「らぁらかわいいなあ」とかぬかしながらプリパラを楽しんでいるわけなのだが、そういう鑑賞態度がもう悪なのだと言われたら、ごめんなさいぃ~死にます、とならざるを得ない・・・こともないのだが、理解されることはおそらく無いだろう(誰から???)。
繰り返しになるが、プリパラを褒めてる人は男性論客が目立つし、美少女アニメとして楽しんでいる男性が多いように思える。監督が女性である点からプリパラが描く多様性を語ることは、男性側からではなかなか難しいのかも知れないし、男性オタクの言語でしか女性がこのような作品を語ることが出来ていないのかもしれない。
さらに言えばプリパラはアイドルをモチーフとした作品のため、アイドルとして歌って踊ること自体が消費されることである事実を無視することは難しく、男性・女性問わずたびたび問題視されるアイドル産業のもろもろと切り離して考えることは、それはそれで欺瞞だろう。もちろん本作が、アイドルという存在を借りて「人は社会でどうあれるか」を鋭くも痛快に描いているのは言うまでもないし、僕も物語に深く感動しているのでプリパラを貶めたいわけではない。ほんとに。
でも、男性オタク(というか美少女アニメオタク)たちは、これは俺/私たちの文化だから、といった感じで保守的な態度をとりつづけているようにも見えるし、ポリコレの波は容赦がないし、アイドルが不当に搾取されているのだと感じるゴシップも日々目にする。
僕たちは、プリパラが描く「みんながアイドル」となれるような世界を目指すことすら出来ないのでは、なんてことすら思ってしまう。

 

終わりに、アメリカがいまもなおヒーローを描くことに成功し続けているのをみると、本当に凄いなと思う。日本はMCUのように真っ直ぐに世界を救う物語を描くのが下手だ。ヒーローの物語は雑に言うと倫理についての物語だ。日本は倫理について描くとき、アイドルを通して描くことをこの10年ほど繰り返していて、結構うまくいっているように思う。でも、そろそろ限界なのかもなとも思ったりする。根拠はないけどね。