ソラ参戦に喜ぶ人たちは消費者として淫らだと思ってもいい気がするけど、そんなこともないかも
大乱闘スマッシュブラザーズSPの最後のファイターとしてキングダムハーツシリーズからソラが使用できるようになると、先日発表がありました。いわゆる「参戦!!」というやつですね。
私はスマブラSP自体プレイしないし、別にそんな興味もなかったので結果的には「へー」という感じだったのですが、みんな大好き桜井政博氏のTwitterでは以下のように異例ともいえるアナウンスがあり、私を含むゲーム好きの関心を集めたのは間違いないと思います。
あと1日で、『スマブラSP』最後のファイターが発表されます。
— 桜井 政博 / Masahiro Sakurai (@Sora_Sakurai) 2021年10月4日
『スマブラ』をプレイしない人でも、ゲームに興味がある方なら
ぜひ観ていただきたいです。https://t.co/tf2ZtsDyIc
ソラの発表は世間的には大きなニュースだったらしく、私の感覚からとはちょっとずれていたみたいで、そのギャップに少々戸惑いを覚えました。むしろ私は、ゲームの情報をプレゼンする消費者たちに向けた番組で、企業間の権利問題が解決したことを一緒に喜びましょうというメッセージが全面に押し出された内容に驚いたくらいです。
そりゃあ、まあ、大変だったんだと思います。私には想像できないほどの苦労があったと想像できますが、でも、それは私には関係ない話です。なぜなら、私はいち消費者であり、企業の都合を忖度する必要が無いと考えるからです。企業努力はその企業が得をするために行われるものです。その努力を褒めて、私になにかしらの得があるのだとしたら、そりゃ私も褒めますが・・・。
なにが言いたいかといいますと、今回のソラ参戦の発表で喜んでいる人たち、テンション凄いアガってる人たち、やたら桜井政博氏と任天堂を褒める人たちは、消費者の立場であるにも関わらず、企業の苦労を内面化し、その苦労を疑似体験すること自体が消費活動と連続したものになっているのではないか、そしてそれを企業自体が自覚的にコントロールしているのではないか、ということです。
今回のソラ参戦の発表は、どのような方向でプレゼンをすると効果的かを考えた上で設計されたものだと考えてみましょう。そうすると、任天堂側が「企業間の権利関係の問題の解決」というストーリーを全面に押し出すことが、宣伝として効果がある、という判断をし、あの番組を制作したといえます。これは私の推測でしかありませんが、任天堂だって一企業です、利益を追求していると考えれば不自然ではありません。そもそもの話として、企業間の権利関係に問題が生じるのは、お互いの企業が利益を護り求めるためです。そしてそれは、私たち消費者には、一切関係のないことのはずです。
しかし、そのような企業の『都合』を内面化した態度も、私自身理解できないわけではありません。MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)では、スパイダーマンの権利を巡って、SONYとMARVELが争い、和解へといたったニュースに胸をなでおろしたりもしました。ファン心理として、(企業の都合で楽しみが減らなくて)良かった・・・と思ったりもします。ですが、SONYありがとう、MARVELがんばった!!とここでなるのは、流石にへりくだり過ぎだと感じたりはします。
昨今のエンターテイメントは企業の都合に消費者が振り回されすぎているのかもしれません。それはキャンセルカルチャーなども関係していそうですが話がややこしくなるのでここでは一旦置いておきますが、振り回されすぎた結果、消費者として自身の立場を下げ、好きな作品やそれを提供する企業を敬いすぎてはいないだろうか、と今回のソラ参戦の発表で改めて考えました。そして、そんな消費者は淫らだとも。
私は、もっとわがままで、冷たい消費者でありたいと思うんですが、でもこれからはそういう消費を促されていくんだろうなと、暗い気持ちにもなりますが、仕方がないことです。淫らだと悪いとかでもないですしね。
新しい方のスーサイドスクワッド、ネタバレレビューしちゃう!!!
MCUの映画を履修したばかりの私にとって、DCの映画はまだまだ未知の領域です。
なので、そんなDCのなかのヴィランばっかりがあつまるニッチな企画、「スーサイド・スクワッド」のキャラクターのことなんて、全然知らないので、そういう話はできないのでしません。そんな興味もないし。
スーサイド・スクワッド 極悪党、集結(←邦題おもろ)は、ご存知ジェームズ・ガン監督が、ディズニーから不当に扱われてできた暇で制作された、DCEU(DCエクステンデッドユニバース(どうやらMCUのように単純に同じ世界という話でもないとか))というシリーズに位置づけられる作品です。
ジェームズ・ガンはDCEUからしたらライバルのMCUで、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」という人気タイトルを2作手掛けたナイスガイです。
「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の魅力を大雑把に説明すると、社会からあぶれたデコボコキャラクターたちの家族のような関係性が描かれている点です。人種や性別はもちろん、アライグマに改造されちゃってたり、自分の名前しか言えない"木"だったりと、本当にばらばら。それでも関係性を築けるんだ、というお話が感動的です。
さて、本作「スーサイドスクワッド 極悪党、集結」はというと、同じです。
いろいろあって社会からあぶれた特殊能力を持った個性的過ぎる(歩くサメもいる)犯罪者たちが、衝突しながらも協力しあって任務に挑む。その関係性の変化が楽しいところです。
「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」と違うところと言えば、なんかグロい。くらいでしょうか。
本作の欠点は、それくらいしか「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」と差がないところです。
いやいやもちろん、キャラクターなどは違います。なんてったってハーレイ・クインがいるわけですし!かっこよくてかわいくて強い!!そんなキャラはたしかにいなかったかもね!(そもそもハーレイは関係性を築けない、けどよくね?みたいなキャラでは???みたいなことも思いますし、本作でもとくに彼女自身の変化は無いよね)
何が言いたいかというと、ジェームズ・ガンが多様性として描いていた(描いているように見えた)キャラクターたちは、本作で多様性を示せていただろうか?ということです。
どういうことか。それは"おバカキャラクター"に関係します。
「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」のキャラクターであるグルートは、「アイ・アム・グルート」という言葉しか発せられない"木"です。一見おバカキャラですが、そのニュアンスの違いではっきりと自分の意志を示すことができます。とはいえやっぱりおバカキャラにも見えますが言語能力と知能はまた別ですし実際なんとも言えません。兎にも角にも、能力の差に関係なく彼を受け入れている、という美点がいえるでしょう。
似たようなキャラクターが本作にも登場します。キング・シャーク(歩くサメ)というキャラクターは本を逆さにして読んでるふりをしちゃう可愛らしい側面のある、やっぱりおバカにみえるキャラです。仲間とご飯の違いが分からずに仲間をついつい食べそうになっちゃう、おっちょこちょいですが、いざという時に仲間を助けたり(してたような気が)します。作品内では強制的に組まされた犯罪者チームなので、最初は何このサメ・・・って感じでしたが、だんだんと打ち解けたりしてたような気がします。たぶん。
そういう点で先述したグルートと同じように、能力の差に関係なく仲間として受け入れる平等さを良きものとして描いています。
ジェームズ・ガンの映画には、ときおりこういったおバカキャラが登場します。スーパー!の主人公がまさにそうですが、そういうキャラクターの描き方として、「かわいらしい存在」として描く傾向があると言えます。あくまで、それは作品を楽しむ鑑賞者にとっての話で、作品内でそういったキャラクターが可愛がられてばかりいるわけではありません(キング・シャークはあるキャラクターから可愛がられていたが)。すこし込み入った言い方になりますが、作品を楽しむ私たちにとって、おバカなキャラクターは「かわいらしい存在」として受け取っていいですよと、ガン監督が操作しているわけです。それは、おバカキャラクターの能力の差が、『私たち』には関係があったことを意味します。
もちろん、フィクションでの架空のキャラクターなわけですが、ガン監督が作品を楽しいものにするために、いわば手癖のように繰り返しおバカキャラを描き続けているように、本作をみて私は感じてしまいました。外側からそのようなキャラクターやデコボコな関係性を愛でる、それは昨今のキャラクターコンテンツ全般に言えることで(関係性萌えとかどうとか)、トレンドといってしまえばそれまでです。しかし、そこにはここで述べてきたようなダブルスタンダードが、能力の差は関係ないとする関係性を能力の差が存在するから愛でることができるという価値観があるのだとしたら、そしてジェームズ・ガン監督がそれに無自覚なら、それはそれで問題ですよねぇ?
そのような態度で多様性を肯定的に描いたことになるのでしょうか。私にはちょっとむつかしいかも・・・。
(念の為に書き加えておくと、ダブルスタンダードであることが問題であり、能力の差うんぬんに関する価値観は、人それぞれであると私は考えます)
さいごに。個人的に、本作はグロが足りなくてすこし退屈でした。
おわり。
ルックバックが良かった話とか
藤本タツキの読み切りなのに140pちょっとある漫画が公開。またたく間に話題に。絶賛の嵐。やっぱり藤本先生は凄いです。
僕はファイアパンチもチェンソーマンもあまり好きではないのですが、皆が夢中になるのもわかります。絵も漫画も上手くて、なんか自信ありそうでかっこいいし。なんか悔しい。かっこいいし。
まあそれは良いとして、あの漫画を京アニ放火事件と結びつけて読むかどうか、それも人それぞれです。僕としては、内容はともかく、今売れてる作家があの事件に対して作品でリアクションをしてくれた(したようにみえた、でもいいけど)ことに、嬉しくなりました。
本当は、ジャンプ+のプロモーションで、著名人に読ませて感想つぶやかせるとか、いかにもやりそうで、あんまり好きじゃないかも、とかそういうことは思わなくありませんが、まあどうでもいいよね。
「ルックバック」で検索すると「ルックバック 考察」って、出てきます。
え。
なんかそういう作品だっけ?
調べてみると、Oasisの曲名が隠されているとか、タランティーノの最近の映画がちらっと描かれてるとか。すごい。細かいんだね。
・・・え。どうでもいい・・・。なんか損しました。
みんな、何か意味を探しているんでしょうか。そこには作者の意図はあるでしょうが、この作品でいうと、京アニの放火事件を含めて、過剰な意味付けをしてしまいそうで怖いと思いました。
ここのところ、「考察」って流行っていますが、このままだと現実世界に対しても考察が捗りそうな気配です。なんかそうなると、ちょっと嫌かもと最近思います。
そもそも生きてる意味が無いわけですが、無意味なものに意味をあたえて僕らはなんかいろいろやります。でも過剰に意味が与えられたとき、それは暴力として働くことがあります。無意味なことは残酷ですが、暴力もまた残酷です。
オリンピックは〇〇のため(なんか言ってた気がするけど忘れちゃった・・・)とかいうと意味が与えられて、「えーそのためにアタイらの生活が犠牲に!?」とか思います。無意味にオリンピックやります!って言われてもまあ、嫌だけど、無意味なものに対して人って上手く怒れないので。
京アニの放火事件に対しても、意味を過剰に見出すことは、その本質を遠ざけることになるのではないかと思います。かと言って、無意味にあれだけの人が亡くなった事実はちょっと耐えがたいんだけど。
ルックバック、クリエイターの物語でエモかった!!って感想に対しては、それはそれで、「ああ、うん・・・」って気持ちにはなります。
京アニ追悼!!素晴らしい!!って感想にも同じように思います。
ってか未だに、ちょっときついわ・・・。
泣いちゃったとか周りに言ってるけど、ホントは何も言いたくないかも。
いまさら履修する「プリパラ」について
友人に激推しされて、プリパラシリーズを全部観ている。
1期を見納め、間髪入れずに2期を見始めたところだが、現段階ですでに評判に違わぬ素晴らしい作品だと感じている。
なぜ、こんな堅苦しい書き出しをしているかと言えば、「プリパラ」という作品はやたらと批評家/評論家が褒めがちな作品であり、その褒められ方も「そんなに言うかぁ~?笑」となるくらいにべた褒めだからだ。ほんと凄い褒められててウケる。
(激推した友人はそういう文脈で勧めてくれたわけではない、ということをここで断っておく)
とりあえず例とか出しとく。
プリパラ学会は本当に必要だと思っているので、賛同者がある程度いるなら『プリパラ学の誕生』っていう本を書きますよ俺は! https://t.co/RR1wcs8MFV
— 松下哲也 (@pinetree1981) 2020年7月7日
という感じ。
偉い人が褒めてるからとりあえず凄いのだ。みんな観よう。おわり。
という冗談も言えるくらいに、美術とかサブカルチャーとかを語る人は一様に褒めてる印象はある。といっても男性ばっかりかもしれない。
いくら「プリパラ」が素晴らしかったとして、作品として強度があったとして、この作品をスタンダードなものとして位置づけることができるんだという言説には、いささか疑念が残る。
改めて示す必要もないが、「プリパラ」のメインターゲット層のひとつは成人男性であり、ロリコンコンテンツとして消費されていると言ってしまえば、それで終わってしまうかもしれない。
それで終わってしまうように僕が思うのにはそれはそれで事情があり、ゼロ年代のサブカルチャー批評が現在にうまく繋がってこなかったことや、美少女アニメなどを好む層がそういった言説を拒否しつづけたこと、なにより昨今のグローバリズムを背景としたポリコレからすると児童ポルノと距離が近すぎると判断される可能性を十二分に感じるからだ。
僕もいち男性オタクとして、「らぁらかわいいなあ」とかぬかしながらプリパラを楽しんでいるわけなのだが、そういう鑑賞態度がもう悪なのだと言われたら、ごめんなさいぃ~死にます、とならざるを得ない・・・こともないのだが、理解されることはおそらく無いだろう(誰から???)。
繰り返しになるが、プリパラを褒めてる人は男性論客が目立つし、美少女アニメとして楽しんでいる男性が多いように思える。監督が女性である点からプリパラが描く多様性を語ることは、男性側からではなかなか難しいのかも知れないし、男性オタクの言語でしか女性がこのような作品を語ることが出来ていないのかもしれない。
さらに言えばプリパラはアイドルをモチーフとした作品のため、アイドルとして歌って踊ること自体が消費されることである事実を無視することは難しく、男性・女性問わずたびたび問題視されるアイドル産業のもろもろと切り離して考えることは、それはそれで欺瞞だろう。もちろん本作が、アイドルという存在を借りて「人は社会でどうあれるか」を鋭くも痛快に描いているのは言うまでもないし、僕も物語に深く感動しているのでプリパラを貶めたいわけではない。ほんとに。
でも、男性オタク(というか美少女アニメオタク)たちは、これは俺/私たちの文化だから、といった感じで保守的な態度をとりつづけているようにも見えるし、ポリコレの波は容赦がないし、アイドルが不当に搾取されているのだと感じるゴシップも日々目にする。
僕たちは、プリパラが描く「みんながアイドル」となれるような世界を目指すことすら出来ないのでは、なんてことすら思ってしまう。
終わりに、アメリカがいまもなおヒーローを描くことに成功し続けているのをみると、本当に凄いなと思う。日本はMCUのように真っ直ぐに世界を救う物語を描くのが下手だ。ヒーローの物語は雑に言うと倫理についての物語だ。日本は倫理について描くとき、アイドルを通して描くことをこの10年ほど繰り返していて、結構うまくいっているように思う。でも、そろそろ限界なのかもなとも思ったりする。根拠はないけどね。